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2001/4/8

No.9タ・ナ・ボ・タ

思わぬ時に、自分にとって喜ばしいことや、物があたかも天から降ってきた如く、手に入ることを昔から「棚からぼた餅」略して「タナボタ」とい いますが、人生でこの「タナボタ」を望み、それを考える癖を持つ人の「支えとなっている思考」は不安です。不安や恐怖というものは恐ろしく 人間の思考力低下につながるのです。思考力が低下するから「何もしたくない」わけで、棚の作り方もボタモチを手に入れる方法も考えが及 ばず、「タナボタ」を空想することにはまっていくのです。

棚も作らずしてどこからボタモチが落ちてくるというのでしょう?棚を作ってもボタモチを置かなければ落ちてくるはずもない。つまりは棚もボタ モチも自分で創らなければ「タナボタ」も経験出来ないというわけです。それでも人生でタナボタを経験した人はたくさんいることでしょう。でも それは本当は諺でいう意味のタナボタではないのです。自分が知らぬ間にたくさん創ったボタモチのストックを自分が忘れていたからこそ、あ たかも「突然」自分のもとに降って来たかのように錯覚するのです。自分を信頼し、人生を楽しんでいる人は棚を創らずにボタモチが棚から 落ちてくるなどといった馬鹿げた事は決して考えないし(考えても無駄だとわかるから。)棚もボタモチも自分で創るのです。創った上でタナボ タを起こす事を考える人はいますし、当然経験も出来ます。

今、食べたい、手に入れたいボタモチは棚になんかにしまわずにすぐ食べることでしょう。それでもまだ食べたければ棚から(もちろん自分 で創って自分でしまったものですよ。)出してきて満足いくまで食べることでしょう。「減ってしまう」なんて不安は考えるはずもなく。自分で又創 ればいいのだとわかっていて不安になんかなりようがない。

タナボタを望む人への提言は、棚ぐらい自分で創ったらどうだろう?ということです。それが出来ればボタモチも創れるとわかるはずです。そ うしたら「タナボタ」を空想している人生をバカらしくて、そんな自分を笑えて二度と考えないでしょうね。棚やボタモチを自分で創らずして「タナ ボタ」を望んでいる人は、絵に描いた餅がいつかはきっと食べられる日が来るかもと本気で考えている人でしょう。そんな人にかけてあげられ る言葉といったら・・・「ご苦労様です。」しか思いつかない。

2001/5/5

No.10天国と地獄 PART1

「死んだらどこへ行くのだろう?」「死んでしまったあの人はどこへ行ったのだろう、何をしているのだろう?」と1度や2度、人によっては現在 も考え続けている人はいることでしょう。大抵の人間の恐怖の内の1つが死でありますが、それは死後の世界が未知であり、どこへ行かされ るのかどうなってしまうのかがわからないからでもあるわけです。又、「死」に対する観念が始まりではなく終わりであり、死者の遺族に対して も「お悔やみ申し上げます」と述べるのが常識になっているのですから死=恐怖、不幸の図式は子供の頃から植えつけられていますものね。

1日が終わる頃、誰も恐怖に苛まれない。明日が来ることをわかっているのだから。明日の仕事や試験のことを考えて恐怖に陥るのは明 日という日が来ることを前提にしての恐怖だからこれは話しが別ですが。死んだと同時に誕生の始まりなのだと知っていたら全ての人は死 に対する捉え方、そして生に対する捉え方が変わることでしょう。死後貴方はどこへ行くのか?どうしているのか?天国はあるのか?地獄は あるのか?−貴方は行きたい場に行けるし、この世にいた時と同じく考えたい様に考えています。

貴方がこの世にいた時とこの世を去った時の最大の違いを大ざっぱに言うとすれば、肉体がないということだけです。精神と魂という本来に戻 るわけです。貴方が肉体を離れた存在になっても貴方自身の精神と魂は決して消滅することはなく、どこまでも自分で在ることに変わりはあり ません。天国であろうが地獄であろうが貴方は貴方として存在するのです。とはいっても天国と地獄という場所があの世にあるわけではない のですけどね。喜ぶ人もいれば、がっかりする人も、嘘だと言う人もいるでしょうが・・・。

そういえば「天国へ行く方法ってあるのですか?」と、かつて聞いてきた人がいましたが、行き方を問うというのはその場所があると考えている わけで、この方にとっては行き方を知らない限りは決して天国に行けないという死後の体験を創り上げるわけです。でも地獄へいくことも望ん でいない。この方が今死んだら天国への行き方を求めて彷徨い人ならぬ彷徨い霊となるでしょう。いわゆる浮遊霊になってしまうわけです。何 町目何番地といった住所がない場所は当然行き方もないのですから。仮に天国という場所があって、そこへ行ったとしても貴方の気持ちが天 国であるとは限らない。同じく地獄という場所があって、そこへ行ったとしても貴方の気持ちが地獄であるとは限らない。場所と感情は必ず しも一致しない。一致させたりさせなかったりするのは自分だからですディズニーランドに行っても貴方が恋人とケンカをしてふてくされていた ら全く楽しくないし、明日の仕事の事を考えて苦しくなったらやはり楽しくないのと同じです。どんな場所にいようとも自分の心は自分で決めて いる。これが「在り方」なのです。

生き地獄という言葉がありますが、実際はそれを言っている人の存在の場が地獄なのではなく、その人が自分の身に起きていることや感じ ることを地獄と捉えての言葉である様に、この世にないものはあの世にもありません。鏡ですからね。あの世に行ったらこの世を「あの世」と 言うだけですよ。あの世で体験することは、この世にいる時の貴方の創造の反映なのです。人生は楽しかった、素晴らしかったと言ってあの 世に移行する人は天国ですよ。人生はつまらなく最悪で、日々地獄の苦しみばかりだったと言う人はあの世でも地獄です。天国・地獄は貴 方の意志であることを忘れないで下さい。だからこの世がつまらないと自殺したところであの世でも同じ。あの世で経験することが素晴らしい ことでありたいのならば今、生きているこの瞬間の貴方の在り方を天国にすることです。

お迎えが来るまで仕方なく人生をあきらめて生き、ひたすら死後天国に行けることのみに情熱を注いで、天国に行ってから再起を賭けよう、 あるいは生まれ変わったら今度こそは頑張ろうなんて考えないで下さいね。今じゃ何故ダメなんでしょう?今出来ないことはあの世でも出来 ない。つまり貴方にとって「変化する」「進歩する」チャンスはこの世に滞在中の間ですよ。「この世ツアー」を満喫しなければもったいない。 あの世に帰って(そう、こちらが本来の実家です。)くだらないツアーだったと語るか、最高のツアーだったと語るかは貴方の生き様が決定す ることなのです。

2001/6/29

No.11天国と地獄 PART2

霊は怖い−その気持ちはよく理解出来ます。
人間にとって得体が知れぬものは全て恐怖の対象ですよね。今は「人間」ですし、霊だった時の記憶もない為、大抵の人は(もちろん霊の存 在を信じている人に限りますが)霊に対する恐怖が少なからずあることでしょう。しかしながら私達は何度も転生を繰り返しています。というこ とはあの世とこの世を行ったり来たりしているわけで、この世を去った時は霊として存在しているのです。

霊という存在の時は、自分が人間だったことを覚えている為、人間のことは当然怖がりません。人間という存在の時は、自分が霊だったことを 覚えていない為、霊のことが時には気味悪く感じるのです。とはいえ亡くなった自分の肉親にはもう一度逢いたい。霊でもなんでも良いからそ の姿を見せてほしいと切望される方もいらっしゃいますよね。幸運なことに愛した肉親の霊を見たという人はいらっしゃるでしょうが、では火葬 場で燃やして無いはずの肉体なのに、どのようにして死者が生前の姿でこの世に現れるのでしょう。そして、例えば北海道、東京、九州といっ た異なった場所に住んでいる兄弟が「同時に」亡くなった母親の姿を見たということが実際にあるわけですが、霊は何故そのようなマジックみ たいなことがやってのけられるのでしょう。霊だから・・・という言葉で済ましていては、いつまでも謎のままですよね。

霊とは生前から培ってきたその人の「精神」であり、その方の「エネルギー」のことなのです。霊ではなく肉体を持った人間としてこの世に生 きている時は、例えば大阪にいる自分が東京にいる恋人に会いに行こうとした時、精神は恋人のことを考え、恋人の元に既に飛んではい ても肉体は瞬間移動など出来るはずもなく、移動するための時間が必要です。精神と肉体共々恋人の元に到着するのには時差が出てき ますが、これが霊となれば、肉体が無いため想ったこと、行きたい場所を考えただけで、肉体が無い分、そのまま瞬間移動が可能なわけ です。いえ、瞬間「移動」という言葉よりも、何かを考えたと「同時」にその場に存在しているとお伝えした方が正確でしょう。これは、何も霊で なくても、人間だって肉体は別として頭の中で何かを考えたと同時に(恋人、両親、子供、孫等何でも)浮かんでいることから感覚的におわ かりになるのではないかと思います。頭の中では場所だけでなく過去にでもどこにだって即行けちゃうのです。パソコンの画面に画像が出 てくるのにしばらく「時間」がかかるのとはわけが違いますよね。

人間は数名の人物を同時に想い浮かべることだってしていますよね。
先程の亡くなった母親(霊)は3人の子供を同時に考えたからこそ同時に子供達が母親の存在を見ることが出来たのです。母親の精神エネ ルギーが3つに分割され、自分の生前の姿を想い浮かべて3人の子供達に自分の姿を認識させたのです。既に無い肉体でも、有った時を霊 が想い浮かべて強いエネルギーを発すれば、この世で生きている私達がその姿を空中で見ることが可能なわけです。ですからわざわざ姿 を見せる霊はよほどこの世の者にメッセージがあるということですよね。

通常、霊など見えたためしがないという方が、(浮遊霊はあちこちにいますから。)肉親や特定の霊を見る場合は、その霊はその人に見える 程のパワーを使って自分の存在を見せているということです。(ひどい近眼な人に無理やり度のあった眼鏡を頼んでもいないのにあちらから かけて見させているようなものですね。)霊はどんな姿にでもなれますが(そう、その様に考えればいいだけですもの)生前の自分の何かに 執着してこの世の者に訴えたい場合は、当然生前の気に入っていた姿なり、その霊の訴えたい状況の姿で現れます。

先程の母親の霊にしても、子供達に自分が現れたことを訴えようとしているわけですから、まさか隣のおじさんの姿で現れるはずがありません よね。(その姿で現れることも可能ですが)交通事故で亡くなったことを悲しんでいる霊はその時の血だらけの姿で出てきて訴え、同情や慰め 供養を求めます。そういった霊には私はいつも「貴方の亡くなった状況や状態はよく理解したから、いつまでも血だらけの顔ではなくてきれい で輝いていた時の顔を見せてくれない?それを想い出してくれれば、その顔になるのだから。」と言うと、ちゃんとその顔を見せてくれるのです。 最初の顔とは雲泥の差です。そして引き続き痛い、痛いと言ってる霊に、「貴方はその時痛かった身体はすでになくて、ないということは痛 みも本当はないの。とっくにその痛い身体からは解放されているのですよ。貴方がその痛みの方を考えているから痛むの。試しに事故で亡く なる前の健康な身体を想い出しても良いし、本当は身体=貴方ではないのですよ。」と話すと驚く程身体の痛みに関して嘆いている霊は、そ れを早く悟ります。

精神的痛みを持って亡くなった霊はそれに執着していたい為、仲々その痛みから離れようとはせず、自分で地獄を創っている霊もたくさんい ます。生前の性格が、そのまま引き継がれるのですから、怒りっぽかった人はやはり、あの世でも怒っていて、ひねくれていた人は、やはり あの世でもひねくれていますね。ですが、人間の時よりは話の理解が早いです。人間界では人生は思考の結果−この結果が出るのに人に よって様々な異なった時間を要しますが、霊は考えたと同時にそうなるわけですから、こちらの言っている事の理解が早いのです。意地っ張 りな霊にでも私がよく話す言葉は「試しに一回でいいから南国の楽園で楽しく泳いでいることを考えてくれない?」と言います。だいたいの霊 がお試ししてくれ、それにはまっています。何だったのだ?今までの苦しみは?とね。人間は休みを取って飛行機に乗ってお金を持参して・・・ と、そこへ行き着くまでにえらく時間や労力が必要ですが、霊はそんなものは必要なしですからね。

あの世へ行った時にすぐ天国を創り上げる霊は生きていた時も心を幸せにする才能に長けていました。だってあの世は物がないのですから 物に支配されての幸せは体験出来ませんからね。自分の精神だけが自分という存在を決定付けていくのです。幸せという存在でいることも 不幸せという存在でいることもどんな「存在」でいることも可能な世界です。しかしこの世でもそれは可能ですよね。可能というより当たり前と 言った方が良いでしょうか。実際そうしていますよね。

さあ、貴方はこの世を去る日までどれだけの「存在」を自分で決め、体験されることでしょう。出来れば楽しく幸せな存在を創られますように。

2001/8/7

No.12不満という名の自己満足

人の性質にはそれを創り上げるための元の精神・・・基本の精神とでもいえるものがあります。豆腐は大豆から出来ているし、パンは小麦 粉から出来上がるというように。あの人は明るい人だといってもいつも笑いころげているはずもなく、怒ったり悲しんだりもするでしょう。それ でもあの人は明るい人だと評価されるのは基本の精神が楽しい精神だから。これとは異なって自分の「基本の精神」が不満に基づいて出 来上がっている人−こういう人は早い話しが精神年齢が極端に子供で幼稚なのです。幼稚さ故に仲々そこから脱出出来ない。

子供は不満事に対してスネるが、「これではいけない。」「意識を変えなくては・・・。」などとは考えません。「不満」に思える事柄について他 者と交流しない限りは、いつまでも自分が正しいから不満なのだと勝手に思い込んでいられるのだし、そうしている限りは自分を成長させ るということは滅多に出来ることではありません。もちろん交流したって自分が絶対に正しいと思い込むことは可能ですが、その考えを他 者に発信させれば、他者から何らかの意見、指摘が返ってくるでしょうし、それによって、もしかしたら自分の不満はおカド違いなのでは? と気付く可能性もあり、ずっと不満でいることから脱出出来る可能性もあるわけです。他者に申し立てをしなければいつまでも自分は正しく (満足)相手は悪い(不満)ことにしておけるのですから不満という名の自己満足を選んでいることになります。

「あの人がこうしないからいけない。」「このシステムは間違っている。」「皆バカみたい。何がそんなにおもしろいんだ?」・・・自分ははすにか まえてまるで悟ったかのようにしょっ中「心の中で」偉そうに自分の不満感を解消するように批判することによって自分を慰める事が出来ま す。心の中とはいえ、批判している間は自分が偉くなったように錯覚も出来るのですから。根暗であるともいえます。根明で不満という宿便を ため込む趣味のない人ならばその不満を外に出すことでしょう。外に出すとはなにも人に自分の不満を八つ当たりすることではありません。

自分が不満に思っていることを口に出せない人の多くは、幼い時の影響を強く受けています。つまり不満を口にすることを幼い時から親や周 囲から許されなかった、認めてもらえなかった、非難された経験が強いダメージになり、自分の中で抱えこむようにしてしまったのです。

そうやってその人の中で溜まりに溜まった不満(こうしてその人は自分の基本の精神を不満にしていくのです。)は、やがて怒り、憎しみ、 嫉妬といった感情に変化していきます。その感情には必ずしも理屈があるわけではなく、かといってその感情をいつまでもずっと出さずには おれなくなっていき、「出せそうな」対象を捜し出し始め、普段は自分の心の中で批判していたことを外に向けて「批判」という形で八つ当たり してみることもあります。ここで重要なのは、批判そのものは悪いことでもありませんが、問題は批判しているその人物の意図していること を見抜く必要があります。その人なりの正義感に基づいている批判なのか、日頃の溜まった不満の垢出しの為の八つ当たりの行為の批判 なのか・・・。

正義感に基づいて批判する人は、批判そのものが目的ではなく、批判することによって、その対象(システム、ルールetc・・・)を良い方向へ 持っていきたいといった考えがある為、批判している理由を筋道たてて説明し、改善策までも提案していくはずです。ところが己の日頃の不満 感に基づいての八つ当たりの批判をする人は、批判そのものがその時の目的であって、別に批判している対象を改善していこうとか何か皆に とって利益になる智恵を提供するわけでもない全く言いっ放しの無責任な批判をしているに過ぎません。このような人の批判はまともに聞いて いるだけ時間の無駄といえるでしょう。何もその人の不満垢出しのお相手として付き合っていることはないのです。その人は不満でいたい人な のだから。そして時々溜まった不満の粘土をおすそ分けする様にぶつける「壁」の役割をしてくれる人を見つけてぶつけているだけに過ぎな いのだから。(全く迷惑この上ないおすそ分けですが、それを黙って壁としてぶつけられることを選んでいたら、それを選んだ自分の責任という ことになります。)

不満でいたい人は自分の不満の粘土を決してボールに変えない壁人間を見つけることが得意です。ただ批判をしていたいだけなのに、その 批判の内容を真剣に受け止めてボールとして返して頂いては困るからです。「それで?どうしたらいいの?どうしてほしいの?貴方の改善案 は?」なんて返されたら本当に困ってしまう。どうしたいわけでも、どうしてほしいわけでもないのですから。ただ偉そうに批判してみたかった だけなのだから、それを黙って聞いていてくれる人が欲しかっただけ。だから自分の批判したことに対して批判を返しそうな人には自分から わざわざ口に出しません。更には自分の無責任な批判に対して賛美、拍手を送って頂けば言うことなしの大満足となれます。

基本の精神が不満−つまり不満でいたい人にとっては、こういったことが満足なのです。歪んだ満足ですが、これを満足と解釈しています。精 神が健全な人ならば、不満でいたい人なんているのだろうか?と理解に苦しむ様な話ですが、世の中にはそういった方々は結構多いのです よ。不満でいたい人は不満の解消の仕方を学ぶことが上手く出来なかった結果、不満でいるしかない、不満からは脱出出来ないと意識のど こかで思い込み、そうであるならばと、「不満でいたい人」として存在することを選んでしまっているのです。本人からすればまさか自分が不満 でいたい人だなどとは知らずに(認めずに)不満でいたい人として存在していることもあるのですが。

不満という名の自己満足を選んでいる人は貴方の周囲にいらっしゃらないでしょうか?貴方がそうではないことを心よりお祈りします。

2001/9/20

No.13ハードル

人生楽ありゃ苦もあるさ・・・水戸黄門の主題歌でもお馴染みのこの言葉は昔から今も引き継いでよく使われています。この言葉をそのまま 文字通り受けとめてしまうと「苦」の時は次の楽を思って幾分救われる気持ちになっても「楽」の時は次の苦がいつ来るのやらとビクビクしなく てはいけなくなってしまい、結局「楽」ではないということになりかねません。苦労性、心配性の人は心当たりがあることでしょう。人生楽ありゃ ・・・の言葉は自分が「苦」と感じた時に活用して自分を励まし、苦から一日も早く脱出するエネルギーにする為に効果的な意味をもたらしてく れるのです。では本当に人生は楽と苦を交互に経験していくものなのでしょうか?

個人によって様々ですが、楽と苦を交互に経験しなくてはいけないといったシステムは、宇宙の「定まった」システムではありません。アリとキ リギリスの物語のように必ず冬を迎えることがわかっていながら、キリギリスのような生活をして、夏を過ごし、厳しい冬の準備に備えずにい れば冬を乗り越えられなくなることは大いにあり得るのですが、夏を「楽しんだ」報いが冬の苦を招いたわけではありません。ただ人生を楽 しんでいるからといって苦を経験しなくてはいけないといった理不尽な運命システムは宇宙の法則からは外れるのです。(もちろん、わざわざ 「楽しい経験の次は苦しい経験をするのだ」と、自分でその様な法則を創れば必ずその様にはなりますけれどね。)

そもそも楽しく気分が晴れやかになる夏に冬の準備に精を出していたアリがその時それを「苦」と感じていたとは限りません。苦しんだから 冬を安泰に乗り越えられたのではなく、するべき事をしていたから冬を越すことが出来たのです。身体が苦しいと感じる事と気持ちが苦しいと 感じる事は異なったもので、運命は身体の苦しみではなく心の苦しみを転写しそれを具現化していきます。もちろん行為として「した」事の結 果も「しなかった」事の結果も具現化されますが、重要なのは行為の最中に「どんな心」でそれをしたのかという事です。その心によっては必 ずしも「行為」通りの結果を経験出来なくなるのです。人に親切にしたところで、その「心」も本当に親切でしたことなのか・・・打算の心が働 いての親切な行為は親切心からではない為偽りの行為となります。ということは自分も偽られる経験をすることでしょう。あるいは偽りの幸 福を自分で創っていくことでしょう。

人間には心と行為が一致している時の方が少なく、自分で低い心とわかっている時ほど誰からも善だと認めてもらえるような行為をすること によって行為=自分なのだと思い込もうとする癖があります。こうしている内に益々本当の自分を知り損なっていき、自分のことがわけもわ からなくなっていきかねません。いつも「私は本当は何故こうしたいのか?」と自分に問いかけて本当の自分を把握することに精を出すと良 いですね。自分を把握すれば、自分の先の未来も薄々わかってくるからです。

そして忘れてならない事は、自分が招いている運命は、どんなに苦と 感じることであっても、自分が乗り越えられない程の高いハードルは 「誰しも」招かない(招けない)ということです。だって自分が招いてい るのですから。自分以上自分以下にはならないという言葉を聞いたこ とはあるかと思います。運命も同じこと。「自分」の運命ですから自分 の運命以上自分の運命以下にもなりようがないのです。貴方の精神 がとても乗り越えられないと落胆している時も、貴方の魂は「乗り越え られるさ、その気になれば」とメッセージを送っています。その気にな れないのは精神が選んでいることであり、世の中にはその気になって も成り立たないことはありますが、自分で創ったハードルだけは、その 気にさえなれば必ず乗り越えられます。そしてそれを乗り越えた時、貴 方は贈り物を手にすることでしょう。新たな自分を創造し、それを自覚 することでしょう。

今、目の前に高いハードルがある人・・・その気になって飛んで乗り越 える決断をしてみて下さい。絶対に飛べますから。自分で創ったハード ルを無視せず乗り越えていく人のみ自分を進化させることが出来る人 です。

貴方の進化に応援を!

2001/10/27

No.14 願望実現化の法則PART1

貴方は今どんな望みを持っているでしょう?物質的なことや自分を取 り巻く環境改善、なりたい自分、現状打破・・・皆、様々な望みを持っ ていることでしょう。もちろん今のままで充分で、この状態がずっと続く ことを望んでおられる方もいることでしょう。そしてその望みに向ってア クセルを踏み、前進している人もいれば、ブレーキを踏んでいる人、ア クセルを踏みたくとも踏み方がわからず、かといってブレーキを踏むこ とにも抵抗し、モタモタしている人もいるかと思います。自分がせっか く望んでいることに対して何故ブレーキを踏んでしまうのか?あるいは 何故アクセルもブレーキもどちらも強く踏まずにただモヤモヤしている のか?これにはちゃんとした理由があります。

貴方が何かを望む時、それは目で見たり耳で聞いたり、つまり外から 入ってくる情報を基にして望む対象を決めていることが大半でしょう。 (江戸時代の人が有りもしない車に乗りたいと思えなかった様にね。 馬より速いものはないだろうかと考えた人は存在したでしょうが。)貴 方自身が望んだことはどんなことであれ、それ自体は貴方にとって純 粋な望みであることには違いないのです。例えそれに対して世間が何 と言おうとも。貴方は自分の望んだことを頭というカメラで写真に撮り、 早速自分の心に焼き増しして植付けることでしょう。ところが人間の心 はとても複雑です。いえ、正確に言えばシンプルであったにも関わらず 複雑にしてしまったと言った方が良いでしょうね。

心とは貴方の魂から精神へ行き着く迄の橋そのものであると考えてみ て下さい。魂から精神へ向う付近の心はとっても純粋で何の恐れも憎 しみも知りません。貴方が外部からの情報によってつかんだ望みは常 に外部と直に接触して反応する精神がキャッチし、橋(心)を通過して 魂に知らせます。魂はもちろん魂付近の心はそれを決して否定せず、 批判せず希望に膨らみ望みはもはや叶ったも同然と前祝いをしている ほどです。ところが・・・段々と精神から橋(心)を渡って伝わる知らせは 望みを諦めること、そんな望みは持っていても仕方がない、とはいえ捨 てきれない望みではあるが、叶いそうもないようだ・・・こんな知らせば かりを受け、輝いていた橋(心)は絶望感でどんよりしていきます。

貴方が自分自身の望みにどれほど応えられるかという決め手は、外 部付近の心を優先するか、自分の内部(望み)を優先するかによって 決まります。大抵の人は外部を優先します。外部を優先すればたちま ち自分を状況の奴隷にし、望みは叶うはずもなく、それとは反対にい つも内部を優先すれば状況をコントロールすることが出来るのです。 外部から内部へ影響を与えるのではなく、内部から外部へ影響を与 えることです。

内部発信で外部着信であれば望みを邪魔する状況をコントロールして いけます。実際には自分がコントロールしているという自覚すら持たず にそれはコントロールされていることもあります。宇宙に存在する全て にはプラス・マイナスがあります。マイナスがなくてはプラスもなくなり ます。下降がなくては上昇はなく、闇がなくては光もありません。全て の人はプラス、上昇、光を希望するでしょうが、外部(マイナス)発信内 部(プラス)着信にしてしまっている人は先程述べた通り非常に多く、こ れは本来逆にしていかなくてはいけません。なぜなら宇宙の法則に従 っているものは通常、プラス力が支配し、マイナス力がそれを支える役 割をしているからで、外部発信ということはマイナス力が支配しプラス 力がそれを支えるという形態になるからです。だからこそ内部発信外 部着信にするのです。支配している力の大きい方が宇宙に伝わるの ですから。

特に意識もせず外部発信内部着信にしている人が多いでしょうから急 にそれを変えよと言われてもとまどうことも無理はありません。大変な 努力を要するのかと思う人もいるかも知れません。でも、そんな心配は 無用です。誰にだって出来ることです。それを次回お伝えします。とに かく忘れてならないのは貴方は偉大な力を持っている!ということです。

2001/11/30

No.15 願望実現化の法則PART2

NO,14で外部発信(外側の情報に作用される心からの発信)内部着 信(魂と直結する内側の心でそれを受けとめる)ではなく、内部発信外 部着信にしなくては願望は叶わないとお伝えしました。貴方が今迄自 分の願望を叶えた時は全て願望の大きさに関わらず、この内側の心 に外側の心を従わせた時なのです。内側の心も外側の心もそれ自体 が単独で働くことはありません。この2つはそれぞれ互いに連携し合っ て両者協力のもと影響を与え合うのです。内側の心、外側の心の両者 とも良い結果をもたらすこともあれば、その反対の結果をもたらすこと もありますが、その差はこの2つの心を動かす者に智恵(知識と解釈 しないで下さい。)がどれだけあるのか、ないのかにかかってきます。

さて、内側の心が外側の心に影響を与えるようにしていくにはどうすれ ば良いのか?が今回のテーマです。それは・・・「確固たる目標」を持 ちなさいということです。これは外部発信内部着信で生きてきた人にと っては何よりも難しいことでしょう。目標を持った途端にいつも自分が キャッチした外からの情報に邪魔され、目標をいとも簡単に(もしくは 最終的にはと言いましょう)諦めることを選ぶからです。これではいつ までたっても自分を内側の心を優先型に変えることは出来ません。 貴方自身の目標は貴方の内側から湧き出た貴方の真実なのだから。

確固たる目標を貴方がしっかりとイメージし、それを自分自身に根付 かせていれば、内側の心は自動的に外側の心に影響を与えます。そ うすると目標を達成するのに必要な条件や人、環境を確実に貴方の 元へ引き寄せるのです。それはまるで磁石がパチンコ玉を引き寄せ る様と似ています。そんなに簡単なものなのか?と疑ってみたくもなる でしょう。ですが考えてみて下さい。貴方がこれまで生きてきた人生の 中で自分にとって歓ばしい事を自分の努力のみでどれだけ体験出来 たのかということを。努力をどれだけしたところで外側の心を優先して しまえば報われずくやしい想いをするのです。もちろん努力そのもの がいけないのではなく、内側、外側、どちらの心を主にして行っている のかということです。しかし、内側の心を主にして生きている人は、さ ほど努力をせずとも早く願望達成をしているということも付け加えてお きたいと思います。つまり、目標の大きさと努力の濃度は比例してい なくとも叶うということです。(貴方に怠けなさいと言っているのではあ りませんよ。過剰な怠慢は自分を後退させるだけですからね。)

確固たる目標を持たない人は、様々に異なる他者からの思考、情報 に視点を合わせて自分を見失い、自分を放棄することにつながります。 自分を放棄していることに気付いていない人もいます。もはや目標が 達成出来ないと言い訳を自分や他者に一生懸命することで自分に目 標を諦めさせることが目標となっている人もいます。言い訳も言い訳と は認めずに突っ走って行くことになるでしょう。貴方が自分の目標に意 識を向けている間は、その目標に対してエネルギーを送っていること になるのです。目標を達成することに対して貴方がどれだけ真剣なの かによって、当然送るエネルギーの強さも違ってきます。そのエネル ギーを向ける対象(目標)がいくつもあると、エネルギーは分散されて しまい、それぞれの対象は弱い刺激しか受けられず、よって反応も遅 れて何も起こらないということもあるのです。ですから大きなエネルギ ーが一気に注がれる様貴方にとって最も手近な目標に意識を向ける ことが、一日も早く達成出来るための技なのです。その目標が達成出 来れば次の目標にというように意識を向けていくのです。

貴方が自分を愛しいと思える存在であるならば、どうか自分の目標を 叶えさせてあげて下さい。

2002/1/31

No.16 愚図人間脱却の傾向と対策(1)

(A)慢性心配症愚図人間の場合

人間は皆、多かれ少なかれ「先延ばし癖」というものを持っている。そ れでも特に愚図と言われる人(もしくは自覚している人)は、この「先延 ばし癖」があらゆる方面で活躍している人です。あらゆる方面というこ とは、自分の立てた人生の目標到達も当然愚図の為遅いのです。もし かしたらこの愚図性質の為に、一生到達しないかもしれない。もし貴方 がこの厄介な愚図人間であったとして、本気で愚図人間脱出を試みる 気があるのなら、まず第一に先延ばしにするための「口実」を貴方自身 が自らつくっているのであるということを自覚しなければいけません。 貴方が愚図人間の場合、その原因は貴方以外の何ものでもない。全 て貴方なのです。

「慢性」愚図人間は自分にとっての緊急事態に注意を払わない。もちろ ん、いつもいつも緊急事態が起こるわけではないが、日常での愚図癖 が習慣になってしまえばこれを見逃すことは簡単と言えるでしょう。自 分にとって一日も早く決断しなければいけないことであったり、最も早く 片付けなくてはいけない仕事であったり、手続き、回答提出、請求ごと、 電話処理、頼まれ事、頼み事等々、貴方が処理しなくてはならない事 柄、決定は日常の様々な場面で出くわすことでしょう。

最優先事が何かを理解していても、それを平気で先延ばしにしてしま う。「わからない」「わからなかった」などとトボけてしまう。(そう、慢性 愚図人間はわからないのではなくトボけているだけなのだ。自分にも 人にもね。)愚図人間は行動には時間をかけずに、やるかやらないか を悩むことに何よりも時間、エネルギーを費やすことを好む。(時には それすら悩まず、ほったらかしにする。)そうしている間は更に先延ば しにしていけるわけで、その結果、結局手をつけずに終わらせていく はめとなる。悩みすぎて挙句の果てには病気になり、療養期間を迎え 、その期間中はやはり先延ばしを堂々とやり、行動を起こさないため の言い訳の完成もやってのけることでしょう。

ところで悩むことと考えることとは全く別のことですが、この違いはお わかりでしょうか?悩むとは、ただその対象に対する自分の「迷い」を 巡らせているだけに過ぎず、ぐるぐると同じところに居座っていること を表わします。だから結局いつまでたっても出てくる答えは「わからな い。」しか出せない。わからないのだから益々先延ばしになるのは当 然と言えます。一方、考えるとは、自分の抱えている問題や状況等を 良くするために明確な答えを出すことを目的としています。つまり、そ の「問題」といつまでもお付き合いする気持ちのない人が行う作業な のです。

さて、話しを愚図人間に戻しましょう。一言で愚図といっても、性質に よって種類が分かれます。必ずしも自分の持つ愚図性が一種類に当 てはまるとは言え切れず何種類のタイプが混ざっている人もいます。 今回はこのタイプから取り上げてみましょう。

(A)慢性心配症愚図人間

このタイプは自分の人生に対する姿勢が恐怖心を土台にしており、異 常なまでの臆病者です。この臆病さを認めている者もいれば認めるこ とに抵抗している者もいます。臆病になってしまう恐怖心は自分の能 力に自信が持てず、自分を信頼出来ないことが何よりもの原因です。 その為、物事を避けたり遅らせたりを繰り返し、ギリギリの緊急事態ま で持ち越すはめへと自分を追い込んでしまう。追い込ませておきなが らも、それでも決断力がないために決断をせず、たとえ決断をしたとし てもそれすら実行しない。大きな津波が来ていることを目にしながらも、 そこから立ち去らずに波打ち際で子供の如くピーピーと泣いている様 と似ています。泣いてさえいれば運が良ければ泣き声に気付いた周囲 に助けてもらえることでしょうし、それを当てにします。運が悪けりゃ波 に呑み込まれて人生の荒波で溺れることとなるでしょう。

慢性心配症愚図人間はいつまでたっても自分で自分を救うことをしま せん。(基本的に自分を信頼していないのだから当然といえば当然で しょう。)そのかわりに誰かの指示、いたわり、助けを人一倍求めます。 自分がやるべきことを怠っていながらヘルプをすぐに求めてしまう。こ のタイプの人間にとって、欲しいのは人からのヘルプであって、(出来 れば自分は寝ていても、その間に全てを行なって頂くヘルプを好む。) 実は煩わしい説教や自分を改善するためのアドバイスではないという ことも理解しておくと良いでしょう。説教を受けて痛い所を突つかれると 自分で立ち上がらなくてはいけなくなってしまう。重い腰を上げずに済 ますには説教中は本人の身に染み付いた習性から説教内容と自分自 身を照らし合わせることを避けることにエネルギーを使い、やはり自分 という人間が「わからない」で押し通してしまうのです。(わかってしまっ たら一大事。呑気に先延ばしをしていられなくなる。)

貴方の子供や友人、恋人がこの(A)タイプに当てはまる場合、説教を するなら猫に小判だと思ってすることを強くお勧めします。それでも本 人に何としてでも改善してもらうことを望むのならば、無理矢理臆病の 正体を出してやらなければいけなくなるでしょう。説教の労力は覚悟す ることです。又、貴方自身が慢性心配症愚図人間であると自覚するな らば、そしてそれを変えたいのであれば以下の事を実行して下さい。 (このタイプは決断したことすらやらないと述べておきながら実行して ほしいというのも変ではありますが。)

(1) 毎日自分に次の質問をする。

  • 私は一体何を恐れているのか?
  • 恐れていることをしなかった為にどんな悪影響をもたらしたか?
  • その時の気持ちは?
  • その気持ちを紛らわすために、しなかったことに対する理由として何を選んだだろう?
  • 人間関係にはどんな悪影響をもたらした?

(2) 人を当てにし、頼りたい誘惑を断つ!

人を当てに出来ないのであれば嫌でも自己対面をしなくてはならなくな ります。頼りになるのは異常なまでの臆病者の自分となれば、何として でもこんな自分を変えなくてはいけないと尻に火がつくことでしょう。や りたくない、出来ないなどと子供のタワゴトは言っていられなくなります。 緊急事態に直面しながらも尻に火をつけないでいられるのは、人を当 てにしている何よりもの証拠なのです。この様な人は自分の家が火事 で燃えていても人に消火してもらうまでただじっと待っていることでしょう。 自分のするべきことは自分で!

(3)使う言葉を意識的に選ぶ。

「わからない」ではなく、わかっていることを口にすること。この「わから ない」が先延ばしにつながるのです。「出来ない」ではなく、出来ること を口にする。(やりたくないことを出来ないと口にしている。やりたくない と出来ないでは意味が全く違う。)「できるだけ」ではなく「必ず」に、「〜 するようにします。」ではなく「してみせます。」に、「努力してみます。」 ではなく「やり終えます。」と変えること。

(4) 自分の恐怖から来る怠慢を正当化しないこと。

恐怖とは自分の外ではなく、内面で制作されたものなのです。よって、 この内面を変えない限りはこのタイプの人間はどこで何をやるにして も達成出来ません。実は結婚相手、仕事の内容等、条件や環境とい った自分の外が問題ではないのです。

(5) 童話を読む。

慢性心配症愚図人間はいくつになっても精神が未熟です。そこから脱 出する為に童話を読むことをお勧めします。子供向けの本はほとんど 勇気や自分を肯定することへのメッセージが暖かい言葉で語られてお り、これを自分の内面に与え続けていくと、現実の厳しさ(実際は厳し くない時ですら(A)タイプ人間はこの様に思えるものです。)から逃げ 出すための先延ばし癖をつくりがちな性分を修正しやすく、自分への 励ましは人からよりも童話からのメッセージを使うと良いでしょう。この (A)タイプは、人からの励ましも、やる気のパワーにはならず自分の 中でご都合良く依頼心に変換してしまうからです。励まされている最中 も「よし、やるぞ!」ではなく、どの様におんぶしてもらおうかと考えてい る。

最後に、心配事は誰にでもあることでしょうが、心配事なのか、貴方自 体が心配という存在なのかを見極めましょう。後者は慢性心配症愚図 人間です。急性であれば問題はなく、慢性ならば大問題です。その場 合、「問題」は貴方の悩んでいることではなく、貴方の特質が問題であ って、それ故に問題から脱出出来ずにいることをしっかりと理解して下 さい。